第1回 「あこがれのカウボーイ生活開始」

わたしが、豪州のブルーマウンテンで和牛繁殖農場を始めたのは2006年の暮れのことです。今でこそ世 界的に「WAGYU」は知れ渡り、ここ豪州の精肉店やレストランでも、「WAGYU」の名が見られるようになりましたが、わたしが豪州に来たばかりのころ は誰も知らない遠い国の牛の品種の1つでした。豪州の「WAGYU」の歴史はまだ10年足らずです。しかし、この遠い国の牛は瞬く間にこの国の畜産業に浸 透しました。豪州に着たばかりのわたしには、将来これほどこの牛にかかわりを持つことになろうとは想像もできませんでした。

豪州に来ようと漠然と思 い始めたのは1989年のこと。当時、栃木県那須町の観光牧場にて搾乳の仕事をしていたころでした。まだ付き合って間もない現在の妻と「豪州か、米国か、 とにかく広いところでカウボーイのような仕事をしたい」と話し、周りの人々に事あるごとに「海外に行きたい」ともらしていました。偶然にも、当時の牧場担 当の獣医師の知り合いの方が豪州で牧場の社長をされているという話を聞き、すぐに連絡先を訪ねて仕事がしたい旨を伝えました。

その牧場は日本の商社 が経営しているレンジャースバレー肥育農場で、1万2,000頭の牛を日本向けに肥育している大牧場でした。しかし、牧場社長から返ってきた返事は「英語 もできない、馬にも乗れない、機械も運転できないような者に牧場でやれる仕事はありません」といった厳しい内容でした。しかし、「とりあえず、日本の本社 のほうへ連絡を取ってみてください」と付け加えてあったので、わらにもすがる思いで本社の畜産課へ連絡を取りました。恐る恐る畜産課の方と連絡を取り、面 会の席につくと「それで、いつから働けますか」という信じられない言葉がいきなり飛び出してきました。当時、レンジャースバレー牧場に赴任されていた技術 者の方が日本に帰国する予定なので、後任を探しているとのことでした。とりあえず、2人とも技術研修として九州の肥育農場で1年間修行させていただけるこ とになり、その間にビザの手配などをすることになったのです。あまりにも話がうまく行き過ぎて、しばらくは信じられませんでした。

無事1年間の研修 を終えてビザの発給も完了した1991年4月、いよいよ豪州へ旅立ちました。シドニーの空港に到着した私たちは、とりあえず飲み物でも飲もうと思い、空港 の売店にジュースを買いに行きました。オレンジジュースを注文した私に手渡されたのはなんと牛乳でした。言葉のよく分からない日本人に、とりあえずと渡し たのでしょう。初めて触れた外国の厳しさです。シドニー到着からわずか12時間後に、750キロ北にあるグレンイネスという町にたどり着きました。当時 は、5時にはすべての店が閉まり、週末も土曜日の午前中しか店が開けないような人口6,000人足らずの小さな町でした。牧場はその町からさらに25キロ も離れたところにあった上、朝6時から夕方5時まで毎日仕事があったので、買い物をするのも大変な環境でした。

英語もろくにしゃべれないので、身振 り手振りで牧場の雑用から仕事を始めました。上司であったグラハム氏は、明らかに厄介者であるこの日本人を根気強く育ててくれた恩人であります。鳥の名前、機械の名前、あいさつの仕方、文化などすべてを付きっきりで教えてくれました。おかげで、豪州で完璧なオージー英語を身につけることができたのです。 この後、仕事に慣れるに従って、餌やりや牛の世話、乗馬などさまざまな仕事をさせてもらえるようになっていったのです。こうして、夢にまでみた広大な牧場 でのカウボーイ生活が始まりました。

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投稿者プロフィール

鈴木 崇雄
シドニー近郊のブルーマウンテンにある和牛牧場「 ベルツリー・オーストラリア」代表。日本人が営む唯一の和牛牧場として、オーストラリアで注目を集めている。